レポート(私はレポートの課題設定から資料のリサーチ、目次構成まで指導することにしていますので、現時点ではこのプロセスにおける受講生とのやりとり)や筆記試験の回答から改めて考えるところがありました。一言で言うと、「社会を科学するということ」を修得させなければという危機意識です。 先週実施した筆記試験のお題は、「エホバの証人輸血許否事件最高裁判決」を題材にしたもの。簡単に言うと、信仰上の理由から輸血ができない原告が、本人の意思に反して医者から輸血され一命を取り留めた後に、自分の自己決定権が害されたとして慰謝料を請求するとき、この慰謝料請求を認めるべきか否かという問題を出しました。 回答を見て驚いたことに、8割方の受講生が自己決定を害したとして慰謝料請求を認めるべきであると判断しました。この回答が誤っているとは言えませんが。私の本心を言いますね。もしこの判断を裁判所が下したとしたら、その後に医者は治療行為をする度に不要なストレスを溜め続けませんか?医者にとって患者の生命を救うことが職業倫理上、最も遵守すべきことだろうと認識している私にとって、自己決定権の侵害を認めて慰謝料請求を容認する判断は、おそらくできません。判決を下した後の社会的影響を考えると、この場合の自己決定権の保護は社会保障上の限度を超えていると考えるからです。 また、レポート指導においては昨今の安保法制(平和維持法制)をめぐる問題を調べたいという受講生や中国の計画出産について調べたいという受講生とのやりとりが印象深く残っています。安保法制については「戦争にいたる立法はすべきでない」という本人の考えの元で資料のリサーチをしようとしていたようです。が、これこそが「いつか来た道」だろうと私は思います。いつの間にか「戦争法案」という言葉が独り歩きしている様に、これが戦争へと誘う道を広げる雰囲気作りになりかねないと考えるからです。 いかに戦争にならないようにするかを考える場合、(過去)なぜ戦争になったかを問い続け、その原因を解消することに努めるほかないと私は思います。社会にとって、その社会の生存が脅かされる状態が、また、国家にとって、その国家の生存が脅かされる状態が、戦争を招くのです。中東の石油に依存している日本にとって、エネルギー源の断絶は国家の生存を脅かすことになると指摘されるならば、代替エネルギーの開発等によって中東依存を引き下げる努力をすること(そのための議論を重ねること)を無視すべきではないでしょう。このように考えると、「相手が自分の右ほほを殴ったら、左ほほを差し出しなさい」と教え諭す様な結論の導出も論理的ではないと判断せざるを得ません。戦力を保持しなければ戦争にならない--それは理想としては分かりますが、相手も戦力を保持していない場合に限られます。相手が丸腰だと分かり、自分の生存が脅かされる状態にあれば、その丸腰の相手に襲い掛かかって自分の生存を保障することは合理的な選択ではないでしょうか。このような事態を招かないためにどうすべきかということが、根底で問われるべき課題であろうと私は感じます。 そして、計画出産については、どうやら男女比率が1:1であることが正しいあり方という考えの元で問題意識をもっていたようです。が、本当に1:1が正しいかは誰も分かりません。数字的には1=1なので、正しく見えますが、社会にとって、国家にとって、それが正しいのかについて私は判断しかねます。この点について、以前興味深い講義を聴いたことがあります。生き物の遺伝子は、子孫を残すために必要なのがどちらの性別かで偏りが生まれるという座学なのですが。そうすると、1:1は理想の社会状態であれば正しいと判断できるでしょう。とはいえ、私たちが生きている社会は理想の社会状態ではありません。そこには現時点で社会の一部として生存している人による、新しい生命に対する間引きもあるでしょうし、自分たちの生存を確保するためにワザと無国籍の子女にすることもあるでしょう。ここでも根底で問われるべき課題は、社会・国家を構成する個人が問題視される行動を犯さないためにどうすべきかということです。 理想を掲げてアプローチすることは決して悪いことはないと思いますが、それが現実社会と乖離することが最も怖いことではないでしょうか。こと、中国研究においてはこの危険性が共有されない状態に戻ろうとしているのではないかと思えることが少し続いていることも気になります。人権派と呼ばれる弁護士が多数、一斉に逮捕されたという報道を聞いて、中国でいっそう人権弾圧が強まっているとか、安保法制に反対する言論が続けば、その分だけ中国の対日姿勢も軟化することが期待できるとか...。第二天安門事件の直前に、民主化運動を見て趙紫陽が失脚することは有り得ないと異口同音に唱導した背景には、民主(化/主義)は普遍的な原理であるという理想を掲げて中国社会でも通用すると信じ、失敗=趙紫陽の失脚したことを復習して欲しいと思います。 高等教育を受けた(る)人間が「凡人」化することが、日本という社会・国家の生存を危うくするのではないかと、ふと頭を過ぎりました。考えなくなった、調べなくなった、集団心理に抗わなくなった...これらのことが本当に恐ろしい。処方箋は「社会を科学すること」と修得させることだろうと私は感じます。高校までの授業においてそれまでの人間の英知を学んだ後の彼・彼女らに必要なことは、世の中の諸現象について、その因果関係を自分で調べ、過去の英知と照らし合わせて引き継ぐべき不変の因果関係を導き出す技術と癖をつけさせることです。一人の人間としての自律と言っても良いと思います。世間一般で言われていることとは違う意味で、日本社会・日本という国家の将来が心配ですし、また、自分が社会に対して貢献すべきことを改めて確認したように思います。
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