唐突ですが、勉強する(勉強している)ときに、集中して取り組みなさいと
言われたことはありませんか? 確かにイージーミスをしないように集中する時
も必要だと私も指摘を受け、経験もしてきました。しかしながら、「物事を極
める」すなわち研究するためには、そのことだけ集中して取り組むことが、
むしろ逆効果であると感じています。
どういうことかというと、自分の興味のある物事に集中して取り組むときに、
その最も深層の、自分にとって興味のある一部だけしか見なくなってしまって、
その周辺あるいはその基本を飛ばしてしまいがちだからです。何かに夢中に
なってしまった時、周囲の状況が分からなくなるあの経験そのものですね。
瞬間的には勉強したように感じますし、集中して取り組んだことは確かですが、
それを持続できるかと言えば、そうではないでしょう。
大学生として修得すべき考え方、すなわち論理的思考も同じです。基本が
できていない思考は持続できる思考に成りえませんし、何かの思考に基づいて
日々行動する私たちにとって、この状態は大学生未満の存在にとどめてしまう
ことになりかねません。
過去日本社会で流行ったワークシェア、男女参画社会、多文化共生、SDGs等
を振り返ってみても明らかなように、これらの基本を修得した一部の中でしか
その行動は持続していません。
持続させるためには基本を修得することが重要であり、その基本は浅くわず
かな周辺の知識であったとしても、それが多ければ多いほど、自分にとって
興味のある一部とつながり、1つの確かな基本を作り出すはずです。
人の脳というのは面白いもので、ある研究によれば、脳は接続を持続すること
によって情報を常に処理しているそうです。脳が勝手に欠けている情報を埋めた
り、情報をつなげたりするために接続を繰り返し試してくれているわけですね。
もちろん、このような理屈を展開すれば、全て(の基本)を(深く)修得
することが研究することになります。理想は、確かにそうでしょう。
では、自分が最も興味のあることは何であるのかについて、他人に正確に伝え
られる人がどれほどいるでしょうか? 理想はそのとおりであっても誰もがそれ
を直ぐに実践できるわけではありません。ロボットでないのですから当然です。
結局のところ、それを探しに冒険する旅が<教養教育>であったり、<遊び
の中の勉強>であったりするのではないかと私は考えています。したがって、
教養教育が必要になるわけですね。
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